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何も変わらない願いから、変われと利他に尽くす

毎日、変化もなく。

平々凡々に、中庸に、楽しいこともなく、苦もなく、淡々と生きたい。

それが、いつからか、そんな願いで私は生きていました。

 

楽しいこともストレスに感じる私は、そっと生きたい気持ちで生きています。

 

正社員で働きたいのに働けない従姉妹が、自分がいたらないからと自己を責め続けるメールを、私へ何年も送り続けられ、その度に肯定的な返信を送り続けてきました。

 

今回の記事は、その従姉妹の苦しみを通して気づいたことを記します。

 

 

「私の我慢が足りないから、いまだにまともに働けていない。」とか、
「私は不器用だから。人が簡単にできることができない。」といった、
目に見えない部分を原因とする方が、人は楽ですね。

 

同じように、「困難を乗り越えようとしている」「私は努力している」といった、がんばりをポイントとして毎日を過ごす方が、楽な道ですね。

 

なぜかと言うと、考えなくてすむから。
自分を変えなくてすむから。

 

ただただ我慢していれば、

考えなくて良いし、
新しいこと、混乱するようなストレスを新たに作ることをしなくてすむ。

 

ただ台風が通り過ぎるのを待つように、

何も考えなくても、

何も行動しなくても、

ただ我慢していれば、

台風(嫌なこと、ストレス)は通り過ぎてくれるから、楽な道です。

 

こんな不幸な自分
(思いどおりに行かない毎日、変な人が周りにいる毎日、嫌なことストレスがある毎日をおくる自分)は、
本当の自分じゃないし、誰かが救ってくれるはず。

魔法のような何かで、良くなるはず。

早く元の、本当の自分になりたい。

我慢していれば、努力していれば、必ず何か良いことがあるはず。

と願い乞う。

 

それは、一神教的な考え方だと思います。

私はカソリックの幼稚園で、そこで学んだ祈り方に近いと感じました。

 

「救ってくれる、救ってくれない。」から始まり、「あの神社は、お寺は功徳がある。ない。」「神はいる。いない。」「あの宗教は正しい。正しくない。」に執着して人生終わってしまいます。自分の寿命がきてしまいます。

仏教では、阿含経に相当するあたるそうです。

ブッタが説いた初期の経典です。

 

仏教でいう「貪瞋痴」の「痴」とは、苦にしっかりと向き合わないがゆえに、何がどうなっているかが明確に把握されず、核心部分の周辺で、ぐるぐると実効力のない妄想を巡らせ、エネルギーと時間を無駄に消耗させてしまうこと。
と説明されてます。

 

そういった思考パターン「私の努力が足りないから」「私の我慢が足りないから』といった、明確な実行を伴わない、ぐるぐると同じ感情を繰り返しているだけでは、本当に自分を生かす生き方にはなれない。と、実は薄々わかっていると思います。

病気や貧困を一時的に救われても、本人が精進(恣意、気づき、接心のみつめ、禅定、自己研鑽)をしなければ、また病気や貧困は繰り返してしまう。

 

ありのままの自己を鏡にうつし、客観的に自己を見つめ、有相無相の日々の生活で さらに深める。

自己研鑽を繰り返す。

 

どうしたら良いか分からないときは、書店や図書館で本をあさると、必ず自分が求めている答えのヒントが見つかります。

また、気づきを与えてくれる人に出会います。

 

それが神仏の導き、本当の意味の救い、救済だと思います。

 

重いストレスで振り払えないときは、散歩と睡眠が良いです。

記憶が薄らぎます。

こういったことも、方法論を得るのではなく、自己と対話し、自分に合うものを見つけていくものです。

 

いままで書いたこと、文書だけで理解できるとは思ってはいないです。

 

密教では、語りつくせない部分があるとされています。書物だけでは悟れない。と言う意味だと思います。

自分の意思で進んだ道で見つけたこと以外、人は理解できないのかもしれません。

しかし、そういった生き方の人がいることを知るだけでも、道を求める人のキッカケにつながるのではないか。と、思い書きました。