教学

仏教の本質 哲学者「中村元」

某民放のメモ

学ぶこと少ない者は牛のように老いる、その肉は太るけれども知恵は増えない。(法句経[ダンマパダ])

相手に対する寛容の精神というものが大事です。

 

その点で仏教は無理に暴力武力を用いて人に強いることがなかった。 

 

昔は宗教が違うということになると、必ず武力による闘争と裏腹になっておりました。

けれども、人類の歴史において多くの宗教が現れたわけですけど、武力によらないで説得だけによって広まったのは仏教だけである。これは西洋の宗教学者も認めております。こういう考え方が、われわれの祖先の中でも生きていたと思います。だいいち聖徳太子の憲法なんかにもはっきり出ております。

現在でもこれは大切な心がけじゃないでしようか。

 

『インドこころの旅』〜ブッダ最後の旅路をゆく〜 (昭和61年放送)

インド全体がヨーロッパ全体とほぼ同じなんです。文明の歴史においても、広さにおいても、人口においても。

 

これがインドですよ。まるで石ころのように転がってる。どれ一つとっても日本の国宝より古いんですからね。 

 

七十八歳 (平成3年放送)

人間の身体は王様の飾り立てた車のように、やがては朽ちてしまう。けれども、人から人に伝えられる真の法(まことののり)はいつまでも輝く。

 

人から人に真理が伝えられるわけでございましょう。それは永遠の価値を持っているという意味なんでしょう。

 

本当の自己というのは、どういうものか。誰でも、人間はどこかの場所で、いつかの時点で、生まれてきたわけです。そして必ず両親があったわけですね。それから育ててくれる人があった。助けてくれる人があった。その助けてくれた人の数というのは無数でございます。

 

ただ人間だけじゃなくて山川草木(さんせんそうぼく)まわりのものが何か関係を持っている。遠く考えますと宇宙の彼方から例えは太陽が光線を送ってくる。そうするとその太陽の恩恵も受けているわけです。

 

宇宙にあるいかなるものも孤立したものではないという思想。宇宙とつながりがあるわけです。そのつながり方が、めいめいみんな違うわけです。だから個々の自己は非常に微々たるものと考えるかも知れませんけど。実は、その内には偉大なものを秘めているわけです。

 

ですから、その偉大なものを受けていることを自覚すれば、そこで自分の生きる道はどうかということがおのずから明らかになって実現される。ということになるんじゃないかと思うんです。

 

七十二歳 (昭和60年放送)

近代の開始と共に宗教の権威は衰えまして、国が力をもってくる。国家形成において巧みであった民族が世界史のリーダーになったわけです。国が絶対的なものと思われましたけれども、今日になるますと国々を超えた一つの地球共同体というものを みんなで考えなきゃいけないところまで来ていると思うんです。

 

何が起きても地球の上で、どこで何が起きても、すぐそれが地球の上のあらゆる国々、さらにその国々の住民の生活にすぐ影響が及んでくるわけですね。

 

以前には、支配者が非常に乱暴な野蛮な行為をしても、また文明の回復ということが可能だったんです。つまりその力の及ばない範囲がありましたから、そちらからまた優れた文明の伝統を取り入れまして生かせばよかった。

 

ところが、だんだん世界が一つになってきて何か起きますと、今度はいっぺん破壊してしまったらもう取り返しがつかない。この危険はあるわけです。

 

世界が一つになる場合に、異質的なものに対する理解と寛容ということ。これが絶対必要だと思います。

 

七十三歳 (昭和61年放送)

仏教の教えというものは、上に輝く日月(じつげつ)のようなものである。

 

太陽や月があらゆる人を照らすように、仏教を教える真理というものは、あらゆる人に明らかなものであり、あらゆる人を照らす。というわけです。

 

続けて、釈尊はこういわれました。

 

もしも、自分が人々を導くのであるとか、あるいは、この修行者の仲間が私を頼っているとか、思うならば、私が死ぬということは大変なことであろう。しかし、私は自分がみんなを導くなんて思ったこともない。また、みんなが自分を頼りにしているなどとも思わなかった。自分はただ人々のよるべき真理、真の生き方というものを明らかにしたそれだけなのだ。だから、なにも自分が消えて亡くなったからといって嘆き悲しむな。およそこの世のもので、いつまでも破れないで存続し続けるものはない。いつかは破れ消えうせるものである。その道理を私はお前たちに今まで説いてきたではないか、ただ私はそこにある一貫した真理というもの、それを説きあかしてきた。だからそれに頼れ。

 

この変転 常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。自分に頼るとはどういうことであるか、自分はこの場合にどうすべきかということを その場合 その場合に考えることでしょう。その場合、何を判断決定の基準にするのか。それは「人間としての道」「法(のり)」。インドの言葉でいうと「ダルマ」と呼ばれるものです。これを法と訳します。この人間の理法というもの これに頼ること。

 

『自己に頼れ 法に頼れ』これが釈尊の最後の教えでありました。