教学

こころの時代 – 日本庭園の伝えるもの – (文字起こし07)

つづき
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(解説者)
 自然農法を教えている人の話です。
 外国人は、言葉がわかりませんから、
 とりあえず見様見真似で教わったことを実行するんですね。
 しかし、日本人は「それをやって、どうなるんですか」と、
 分かればやります。と言うんですね。

 日本人は頭で聞いてやってみて失敗したら、
 これはダメだと、そこで止めてしまう。

 しかし外国の人は、国へもって帰って
 言われたことを実行して、工夫していくんですね。
 結果も出しますし、長続きもします。

 本当の意味での
 物事が成長していく、変化していく、
 それは言葉ではないところが大きいですね。

身体で掴むんですね。

例えば
座禅にしましても、
現代社会は情報が独り歩きしていますから、
「座禅すると何が良いんですか」とか
「健康に良いんですか」とか
「心が落ち着くんですか」とか
すぐ結果を求めようとするんですね。

でも、そうじゃないです。
結果とは、たまたま後からついてくものであって、
それを求めるために座禅をしているわけではなくて、
ただただ、ひたすら座っていく中で、
心が穏やかになって、
結果として健康に良かったり
血流がよくなったり
頭がまわるようになったり
セロトニンが分泌されたり
とか色々言われていますが、それが先ではないんです。

そんなこと分からないまま2500年くらい続いてきていますから
身体で感じて、これがいいものだと思ったから続いてきているんですね。

(解説者)
 いまの学生さんたちに「身体で覚えるんだよ」といったこと
 なかなか伝わりにくいんじゃないんですか。

はい。非常に伝わりにくいですね。
ただ経験をさせると目覚めます。

なんでも調べたりするのは得意なんですね。
ところが、いくら調べて、いくらレポートを提出させても
それを身体が体感していないから、人事なんですね。

日本の空間の美しさとか、心地よさとか、
いくら書かせても、自分のものになっていないんです。

いちど一緒に京都に連れて行って
そういう中に一緒に座って
「これって気持ち良いでしょう」と
「感じてごらんなさいよ」というと、どんどん目が変わっていく。
それで、こういうのが大好きになったり、本当の意味で目覚めますね。

(解説者)
 そうすると。
 案内のパンフレットを見て、この池はこうだとか
 この建物はこうだとか書かれていることを読んで
 ああ。そうだった。と終わるるだけではつまらないわけですね。

むしろ、それを見ないで
はじめは ぐるーっと歩いて
何が自分は気に入ったところなのか
自分でどういった気持ちになれたのかということを
自分自身で心の中で、対話をしながら確認をする。
その後でパンフレットをみて、ここってこういうことだったのか。と
その方がよっぽど身体に入ります。

(解説者)
 たしかに、言葉というものは便利なものですし、
 大切なものですけれども、
 言葉ですべてが表現されている。と思うところに
 錯覚が生まれることがあるんですね。

そうですね。
むしろ日本の美しさというものは、言葉や形にならない。

不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)
大切なことは文字や言葉にならないわけですから、
その背後に潜んでいるものが、どういうものか、というのを察する。

文章であれば、文章の行間に何かを読み取っていく。

空間であれば、空気に何かを感じ取っていく。

こういうことができれば、
もっともつとそこに作りての精神だとか、価値観、美意識が
潜んているわけですね。
それを気がつくと、そのすごく嬉しくもなりますね。

(解説者)
 自然なら自然の心を感じられようになりますと、
 庭園だけではなくて、
 季節の移り変わり、それも「春になったな」とかそういった程度の
 捉え方ではないところまで感じられるようになるんでしようか。

そういうことですね。

例えば、
春ならば、春には実態はないんですね。
これが春です。と、手で出して見せられるものではなくて、
桜が咲いて「あっ。春だな。」と我々が感じているわけです。

そういう中に、自分がいるということ
「私は春の中にいま生きている。生かさせていただいている。」ということ
を感じとったならば、
すごく嬉しくて、ものすごく尊い気持ちになっていくことができるんですね。

(解説者)
 わかる。わかりたい。という気持ちを
 誰しも持っていると思いますが、
 言葉をもって割り切って分かるということもありますが、
 本当の意味での分かるとは、言葉にならないところを
 どう感じるか。

 季節の移り変わりそのものを求道の心の工夫として捉えよ

 「そのもの」は難しいけれども。。

変化していくことに、
世の中の心理が現れてきているのではないか。
その現れているものの中に、私は今いるんだ。ということ。

真理、世の中の道理ですね。
真理の中に私はいるんだということに気づくことができる。
小さなことはもう、あまり執われなくても良くなっちゃうんですね。

こんな素晴らしい中に生かさせていただいている。ということが、
自分の中に感じられると、生きていることがすごくありがたい。
或いは、いまこうしていられることが、ありがたい。という気持ちになれるんですね。

(解説者)
 そういう考え方になりますと、
 自分が死んだ後も、地球は動いているのではなくて、
 もう自分と宇宙は一緒なんだと、
 生きているのも死んでいるのも共通の地盤なんだと。

 受け取り方もずいぶん違って受け取れるようになるんじゃないかと。

 万物と一体の中の生と死、
 自分が死んだらどうなるかな。と心配する世界ではない。
 もっと気楽に考えられるようになりますね。

道元は、
生きているときは生きているそのものになりきる
死のときには、死を迎え、死そのものになりきる
「生の延長上に死があるんじゃない」とおっしゃってるんですね。

「前後際断(ぜんごさいだん)」
薪と灰に例えて、
薪が燃えたから灰があるんのではなくて、
薪は薪で確立していて、灰は灰で確立しているんだと
同じように、
生きているとき、生のとき、
生で確立していて、死は死で確立しているんだと
つながっているのではないぞ。と
ですから、そのもの、そのものに、なりきれば良いんだ。と
いったことをおっしゃってます。

(解説者)
 人間は続いているように見えますけれども
 一刻一刻の瞬間に立っていれば
みんな切れているんですね
 断つところ皆真なり
 「随所作主 立処皆真(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)」
 とありますように、

 いま、この瞬間も移り変わっていくけれども、
 いまは、いま、過去は過去、灰は灰、薪は薪ということですね。

そうですね。
別の言い方をしますと、
「即今(そくこん) 当処(とうしょ) 自己」
「いま ここで わたしが」
その瞬間、その瞬間の積み重ねが、
やがてその方の人生を築いていくわけで
そこに全命、エネルギーをいかに注ぎこんでいくか
というのが人間の一生築き上げていくものなんですね。

(解説者)
 「いま ここで わたしが」の常にそれの連続であります。
 ということと、
 庭園のお話で姿形で表現されるもの。それは別物ではないんですね。

私が表現するときには、
そのときの自分が生きる、力量がそのまんま表しきっているわけです。

それを一年後にやると
変わっていなければ成長していない。ってことになりますね。

ですから、
変わっていって良いんですね。

常にそこでは出し惜しみなく、
すべて自分の持っているもの、
気持ちを、精神性を、すべてそこに出し切る。ということが大事なんですね。