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こころの時代 – 日本庭園の伝えるもの – (文字起こし02)

つづき

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実家のお寺を継ぐために修行生活に入りました。
いままで庭は庭と感じていたものが、まったく一緒だということがわかってきたんですね。

庭というものは自然が凝縮されたものてす。
そこには四季の移り変わりがあるわけで、
これは人間の図らいごとを超えたものなんです。
春になれば温かい風が吹いてくる。
自然に、芽を出し、花を咲かし。

こういうことに気づくというこは
自分がその中に生かされていることに気づくことと一緒なんですね。

そうすると、
その自分が、

ともすると「自分が生きているんだ」って気になりがちなんですが、
ではなくて、
こういう自然の中に、私達もその一人として一緒に生かさせて頂いている

そういう気持ちになってくるわけですね。


(解説者)
 自然の移り変わりは、自分の都合の良いところしか見えないですが
 自分が何かを捕まえる・捉えるのではなくて、
 心がどういうふうに動くかということを感じとる
 自然の変化がど変わっていくのかは共通しているということですね

自然の移り変わりの中に
自己の本分を見ていく
その変わっていくことがこの世の常なんだということを
自分で気づいていく、

その中に、いわゆる仏道修行(自分の歩む道)を見出していく
そういう姿勢だと思います

(解説者)
 何前年も何万年もある自然に人間の手が加わりますと
 本来の自然のあり方と違った結果がでる現実もありますね
 その辺のところはどうすれば良いでしょうか

簡単に言いますと、
自然とは森でもガサガサとしていて、
人間が立ち入ることができないくらいの
とても木々が茂ってしまうわけですね

ところが、人間と自然
仏教では共生(ともいき)というのですが
共生をするということは、そこに手を加えていかなきゃいけない
しかし、手を加えていくときに
自然に対して「こうさせるぞ」「こうしてやるぞ」といったようなことではなくて
自然の命とか、心をどういうふうに尊重して引き出してあげるか

手を加えるんですけれども、
木で言えば、木心(きごころ)を活かして、それを扱ってあげる
石であれば、石心(いしごころ)を活かして、扱ったり
大地であれば、地心(じごころ)を活かして、それを扱っていく

私達がデザインするときに、
「地心を読む」とか「木心を読む」とかという言い方をします。

それは「もともと持っている心をいかに引き出してあげるか。」なんですね。
そこが西洋の人間が主従関係の主に立ってするのと、
共生するのとの違いがあるんです。

(解説者)
 私は自然農法の方とお会いしたとき代々木公園の木々を見たとき
 自然ままというのはこのことでしょうか、とお聞きしたところ
 「いやちがう。これは人の手を加えたものだ。
 自然はこうじゃない。もっとすごい」とおっしゃられました

 人間があるていど手を加えて作り上げたものが
 植物なり、石なり、大地の様子が、
 本来は人間の手が加わらない方が自然のまま、本来の姿を
 見る目がいるわけですね。

そうなんです。そこが一番大事で
それを見取っていく、見抜いていく、この目をいかに養うかが大事なんですね。
仏教用語で「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」とあります
山も地もすべて成仏しているんだという考えですね
その中には、仏性があると
それをいかに引き出してあげるか
こんどはそれを扱う人間側の能力というか、責任でもあって
その目をいかに養っていくことが大切か。問われるんですね。